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宗教の街宣車に見る幸せ

 秋葉原を歩いていると、軽自動車にスピーカーを積んだ街宣車から、こんな文言大音量で流れてきた。

「良き行いをした人々はさばきを受け、永遠の天国に 悪しき行いをした人は永遠の地獄に落とされます」

 

 どうやら、某宗教系の新興宗教らしい。街宣車の前では身ぎれいな格好に身を包んだ、柔和な顔をした上品な雰囲気の男女が無料で冊子を配っている。まあよくある風景だ。

 いつもは特に気にしているわけではないのだが、この日はなんだか街宣車の文言が気になってしまった。街宣車から流れてくる音声を聞きながら私は「天国と地獄、永遠に続くんだったらどっちがいいんだろう」なんてことを考えていた。

  

 別に私に宗教学的な素養があるわけではないのだが、細かく聞いてみると、この新興宗教はどうやら、生きているうえで感じる苦しみから永遠に救済された世界を天国と考えているようだ。もちろん、年は取らないし、人間が感じるような愛憎、病気、身体上の苦悩みたいなものからも解放されるらしい。なんだか悟りにも近い。

 

  地獄はと言えば、話を聞いているとどうやら仏教やキリスト教のように地獄の責め苦が永劫行われるようなものではないようだ。天国とは真逆の状態、つまり人間的な苦しみが永劫続く世界らしい。

 

 はてどちらが本当に幸せなんだろうと考えてしまった。確かに生きるということそのものが地獄のようにも思う。今20そこそこの私だが、楽しいこと嫌なこと生きていくうえで何かあるのか考えれば8割がた嫌なことだ。思い出すのも嫌なことがある。

  

 私は多少人生をこじらせている感はあるが、道行く人々もたいがいそんなもんなのではないだろうか。一時期はルサンチマンのような状態になっていた私はネット上のスラングさながら、いちゃいちゃしているカップルや居酒屋ではしゃぐ大学生を見つけると「リア充爆発しろ」なんて思うこともあった。

 

 今思うと、気楽そうに見える彼ら彼女らも、一般的にいいカップルに見えるように日々努力しているのかもしれないし、気楽そうに見える大学生もその場を盛り上げるために涙ぐましい努力をし、会が終わればなんとも言えない無力感にさいなまれているかもしれない。

 

 とかく世間はつらいことばかりだと思う。私はしないが自殺するのも無理もないと思うくらいだ。

 

 冒頭に戻ろう、街宣車の語る天国はこんな人間的な苦しみから解放されることを意味する(と私は解釈している)確かに魅力的だ。心がざわめき立つこともなければ、無力感、自分の情けなさにさいなまれることもないのかもしれない。

 

 だが、思う。果たしてそれは幸せなのかと。そんなわけで私は街宣車の前で布教する男女をまじまじと見てみた。「布教するノルマが決まっている」みたいな悲壮感をその顔から感じることはできなかった。だが、なんというか作った顔である。親しみやすそうな笑顔なのだが、なんだか親しみやすすぎる。絵にかいたようないい人の顔だ。没個性的でもある。

 

 彼らが言う幸せというのはこうなることを指すのだろうか。そう思ってしまった。果たしてそれは幸せなのだろうか。苦しいことがあるからこそ、トイレが間に合ってほっとした、とか、激烈におなかがすいているときにおにぎりを食べてなんだかいつもよりおいしかったとか、小さな幸せをかみしめることができるのではないかと思っている私としては、人間的な苦しみから解放された、解放されるための道を歩んでいるらしい、彼らの姿は幸せそうには見えなかった。

 

 もちろん、これは本質的な話でちまたで聞く新興宗教の話をかんがえると苦しみから解放されているはずなのに、普通に生活していれば感じないような苦しみにさいなまれずを得ないという気もするので、こんな単純化はできないだろう。というか私は宗教について無知なのでもっと知る必要もあるかもしれない。

 

 ただ、幸せってそんな人類平和みたいな大きなものとは違うように思うし、もっと個人で規定していいのではないかと、宗教の街宣車を見て改めて思ったのだった。

 

 まあ幸せって何なんでしょうね。終わり