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最年少女流棋士誕生に見る「天才を生んだ教育」をマスコミが取り上げることの是非

10歳のプロ囲碁棋士、仲邑菫さんの誕生が話題になっている。井山五冠は置いておいて、国外勢からはかなり差をつけられている、日本の囲碁界。しょってたつ素晴らしい人材が誕生したことは喜ばしいことだろう。

 

だが、マスコミなどを見ていると、彼女の誕生のすごさは、数字だけで触れるのみのものが多い。話はすぐに「天才を生んだ教育」にすり替わっていく。

 

確かに、天才が受けた教育を紹介することはわかりづらい棋界のシステムを解説するよりは一般受けするし、数字も取れるのかもしれない。優先して報道することは営利目的で営業している以上仕方がないのだろう。

 

だが、個人的には「天才を生んだ教育」なんてマスコミが別に取り上げる必要はないし、取り上げることには害悪の方が多いのではないかと思う。

 

何故そう思うかと言えば、こうした天才を生む、天才をはぐくむみたいな言説を真に受ける人が少なからずいるからだ。

 

そして、往々にしてその被害を受けるのはそんな言葉を真に受けた親の子供であるからだ。

 

こうした場合彼らが浮かべる天才というのは突如として意味が変わることが少なくない。

 

 

将棋界のような頭脳競技で天才と言えば、往々にして天才=頭がいいという図式を成り立たせている人がいる。まあここまではそれほど間違いではないだろう。定義の差こそあれ彼らが比類なき頭脳を持っているのは事実だ。

 

だが、もう少し踏み込むと様相が異なる。天才=頭がいい=偏差値が高いといった図式に陥っている人が少なくないのだ。こうなってくると、天才を生んだ教育=偏差値を高める教育になりうるし、ひいてはよくわからないいい大学にいって、大企業に勤めるみたいな話につながりがちなのだ。

 

もちろん、こういった天才を見て、子供の方から要請があった場合は天才の教育を参考にするのはいいことなのかもしれない。だが、多くの場合、子供が受ける教育を選ぶのは親だ。ある一定の年齢まで子供の歩む道を指し占めすのも親だ。

 

天才を生んだ教育を真に受けて、まだ自分が何をしたいのかもわからない普通の子供が”天才”というよくわからない能力のようなものを身に着けさせるために、よくわからない学校に通わされ、メンタルや生きるうえで大切な何かを犠牲にしながら、そこそこの大学に入れるだけの学力をも身に着けて戻ってくる可能性があるわけだ。

 

これは非常に嘆かわしいことだと思う。実際私は高校時代偏差値が65程度の俗に進学校と呼ばれる学校に行っていたことがある。私は偏差値が55くらいだったのだが、たまたま試験官の気の迷いか、何かで、まぐれでこの学校に受かったしまった。

 

だがその一方で、この学校には普通に一生懸命自分の意思で勉強してきた人間も多く致し、そんな人たちの中に交じって、幼少期からよくわからない横文字の教育や英才教育とでもいえるレベルの教育を受けてきた”天才”達も集まっていた。

 

もちろん中には自分が天才であることを信じて、その微妙な自意識を残したまま、何も問題を起こさなければ後の人生がそこそこ約束されているレベルの大学に入った人間もいたが、中には天才になることを強いられた結果、勉強や学校生活そのものに意義を見出せなくなっている人間もたくさんいた。

 

親に反発して家出を繰り返してみたり、学校にきているもののテストではしたから数えた方が早かったり、そもそも学校に来なくなったり、千差万別だが、往々にして、生きることに苦労していたように思う。

 

もちろん、天才を生む教育なんてものを真に受けて子供に貸してそれがうまくいくこともあるのかもしれない。だが、世の中はそんなにうまくいかないわけで。必死になって親の指示に従った結果、ろくでもないことになってしまうことだって少なくない。

 

そんな考えが私にはある。だから、私はテレビで天才が登場するたびに報じられる「天才の生み方」みたいな言説には害悪が多いのではないかと思ってしまうのだ。

 

個人的にはマスコミは人の入れないところにずいずいと入り込める特権を持っているのだから、単に光の面をより多くお茶の間に届けるよりも、天才棋士の情報を報道するのであれば、逆にプロになれなかった棋士のその後等、闇の面にもっと光を当ててもいいのではないかと思う。