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実録 人は精神的に追い込まれると吐く

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人は精神的に追い込まれると吐く。こんなことを耳にしたことがある方は少なくないだろう。

だが、実際どれほどの人が精神的に追い込まれ、吐いたことがあるだろうか。ちなみに私はある。小さいころ私はひょんなことから吐くまで精神的に追い込まれてしまった。今回はそんな私の経験をご紹介したい。

あれは小学生の時だった

私が精神的に追い込まれて胃の内容物を道にぶちまけたのは小学生の時。今から10年以上も前のことだ。

 

事件はタイでの家族旅行中に起こった。補足であるが、私の両親は旅行好きな人間で、少し借金をしてでも旅行に行かなくては気が済まないような少々危ない性格をしていた。

 

話は少しそれたが、そんな両親の好きな滞在先がタイだったわけである。

 

今でも物価が安くて気候は温暖と魅力的な観光地だが、当時も今より多少治安が悪い以外はそう変わらなかったと思う。暖かくていい場所だ。

 

この旅行で私たち家族はタイの三つの街で滞在した。期間はのべ3週間ほどだった。最初は首都バンコクに滞在し、その後鉄道で北部チェンマイへ、そして最後に訪れたのがバンコクから車で2時間ほどのリゾート地「パタヤ」だ。

 

ちなみに私が吐いたのがパタヤである。ここがどんな街かというと、日本でいえば熱海と湘南と歌舞伎町を混ぜたようなビーチリゾート。簡単に言ってしまえばビーチリゾートに夜の街がくっついた感じだ。

パタヤの夜に現れた橋田寿賀子

パタヤでの滞在は4,5日だったが、幼い私にはそこでの体験は刺激が強かった。

 

 

飲食店に入って席についたかと思えば、横にある青色のリングの上では同年代くらいの小さな子供がムエタイのリングにあがり、なぐりあっている。リングサイドでは赤ら顔の中年男性が鬼のような形相で札束を握って叫んでいた。

 

かと思えば、私の横をビキニをきたグラマラスなおねぇさんが通り過ぎていく。

 

すぐ目の前では恰幅のいい中年の白人男性が札束を持ち、何やらにやにやしていた。その横には薄着の細見で目鼻立ちの整った女性が座っていて、ビールを注いでいるといった具合だ。

 

今冷静に考えてみるとこんなことは日本でもよくあることだが、当時の私には理解が及ばないことの連続だった。

 

中でも衝撃的だったのが、パタヤの夜に現れた橋田寿賀子である。何を言っているかよくわからないかもしれない。もちろん、名脚本家本人ではない。

 

夜のパタヤを家族で歩いていたところ、橋田寿賀子が着そうなボーダーのシャツに短髪でメガネの、橋田寿賀子要素をこれでもかと詰め込んだ、そこそこ年のいったおばさんが街頭でゴーゴーバー(おねぇさんのお店)の客引きをしていたのである。

 

ちなみにゆとり世代真っただ中の私が、このおばさんが橋田寿賀子に似ていると気づくはずもなく。橋田寿賀子に似ていると最初に言い出したのは父だった。

 

「うわっ橋田寿賀子」と父が言い出すと、母が「うふっ!(笑)」と人の顔をみて笑い出す具合である。

 

当時は子供ながらに「なんてひどい人間なんだ」と思ったが、そのあと橋田寿賀子を見て、やはりあれは橋田寿賀子だったとうなずかざるを得なかった。それぐらいそのおばさんは橋田寿賀子だったのである。

 

橋田寿賀子はと言えば、夜のパタヤの街頭に立ち、歩いている白人やアジア人の観光客と思しき男性たちに目配せして、妙に規則的なリズムで右手の指をゆらゆらは動かしながら、「カマ~ん」「ワンハンドレッバー(おそらく100バーツの意)」などとのたまっている。

 

ちなみに店はというと、大型スーパーのワンフロアくらいある大きさだったが、まばらに人がいるくらいで閑古鳥すら鳴いてくれなそうな状況だった。当たり前だ。誰がこのばばぁについていくというのだろうか。

 

だが、店の中にあるきついピンク色のスポットライトに照らされたステージの上では、橋田寿賀子の奮闘に合わせるように水着姿のおねぇさんたちがなまめかしく踊っていた。子供ながらに世の中の理不尽というもの感じさせられた。

 

食事から帰る途中突然の腹痛が

だいぶ話がずれた。事件が起こったのはこの翌日、確かパタヤ滞在3日目だったかと思う。夜食事のため、私たち家族はレストランで食事をとっていた。

 

一般的なタイ料理のレストランで私達は次に次に運ばれてくるタイ料理に舌鼓を打つっていた。辛口でありながらもうまみがしっかり効いた好きな方ならご存知、あの味である。旨かった。

 

一時間ほど食事をしたあと、私たちは宿泊先に戻ることにした。車での移動となるため、不測の事態に備えトイレに行くことを勧める両親をしり目に、私は勇んで外に駆け出した。

 

未知の外国での夜の景色が私にとっては何よりの楽しみだったのである。この時私はまだ、この判断が原因となって、わずか数十分後に嘔吐することになるとは夢にも思っていなかったわけであるが。

 

私たちは宿に戻るため、レストランを後にし路上で車を待った。父が「ソンテウ」と呼ばれる現地の乗り合いタクシーのような乗り物を止め、料金交渉ののち、これに乗り込んだ。

 

日本で乗るタクシーやバスとは違いソンテウは軽トラックの荷台を客車に改造したようなもので、窓なんてものはない。ふきっさらしだ。こうやって書くとさも危険なようだが、実際はかなり安全で、何なら夜風が当たって気持ちいいくらいだ。(料金も確か安かったはずなのでタイにいった方はぜひ乗ってみてください)

 

しばし夜風を味わいながら、ソンテウ乗っていると、渋滞に捕まってしまった。そこからが地獄の始まりだった。

 

きらめく夜の街の明かり、お店から手招きしているきれいなおねぇさんを10歳くらい年を取ったような気持ちで優雅に眺めていた私を突然の腹痛が襲った。

 

別に食べた料理が悪かったわけではない。よくある、食後の腹痛である。トイレに行かなかった私が悪かった。

遅々として進まないソンテウ 痛みを増す腹

渋滞にのまれ、私たちが乗っていたソンテウは遅々として進まない。腹の痛みはどんどん激しさを増した。

 

下腹部に鈍い痛みが襲ってくるようになりただ腹痛だけでなく、便意が迫ってくるようになった。ここでようやく、脂汗を流しながら何事かを我慢している子の異常事態に親が気づいた。

 

「大丈夫?」と声をかける両親。だが無情にも周囲には気楽にトイレを借りれそうな店もなく、また宿泊先へは歩いて帰れるような距離ではなかった。

 

この時はまだ、私にもちんけなものではあるが、プライドはあったし、短い経験ではあるが、通学路で培った危機対策の経験から、この痛みを「我慢できる範疇」だと判断していた。

 

そんな理由もあって私は親に「大丈夫」と無事であることを告げ、下腹部を抑えながら奥歯をかみしめ、我慢の体制に入った。

 

親は安どしていたが、高々10数年生きていただけの当時の私の目論見は甘かった。全然痛みは治まらないし、全然渋滞も解消しない。

 

腹の痛みはますますます一方である。押し寄せる痛みにうなりそうになっていた私はここでふと、ある危険に遅ればせながら気が付いた。そうである「漏らしてしまうことである」

 

小学生はいつの時代も残酷なだ。私の時代もそうであったが、漏らしたことが知られれるということは、学期の終わるまで「もらし」の異名をつけられてしまうことを意味した。そして、もちろんそれは多くの場合いじめとセットである。

 

私自身「もらし」の経験はなかったし、別に黙っていれば良かったのだが、そこは視野の狭い小学生。しかも私の眼前に迫っていた危機は「もらし」な上に「大きい方」だった。「このままでは僕の人生が終わる」そんな絶望感が私を襲い始めていた。

 

ソンテウを降りた瞬間 吐いた小学生

永遠に続くかと思われた渋滞はなくなり、私たちの乗っていたソンテウはとうとう宿泊先がある浜辺の近くまでやってきた。

 

だが、私はもう限界だった。「もう無理......おろして」と力ない声で両親に告げ、そんな私に見かねた両親はソンテウを止め、私を引き連れ降りることに。

 

ここで安堵したかと思いきや、トイレがなければ漏らしてしまう、その事実に圧倒された私の精神は限界を迎えていた。急に胃がひっくり返るような刺激が私を襲ったのである。

 

ソンテウから降りた瞬間、私は強烈な吐き気に耐えられず思わず吐いてしまった。もちろん食中毒のようなものではなかったので、食べていたものを全部吐いてしまうような状態ではなかったが、私はさらに追い詰められていた。

 

漏らすことに次いで吐いてしまうことも残酷な小学生の世界ではその人物を村八分にするに足る十分な要素の一つだ。私は茫然とした「もらしにもなりそうだし、吐いてしまった」もう頭の中は真っ白だった。

慌てる母 笑う父 私は海岸でズボンを下した

異常な事態に慌てたのが母だ。周囲を見渡し、どこかトイレがないか必死で探している。そんな母をしり目に私はおなかに響く鈍痛、迫りくる便意を意識しながら、呆然と浜辺を見つめていた。「もういいやあそこでしちゃおう」自暴自棄になった私の頭の中にそんな考えがよぎりつつあった。

 

そんな私をしり目に何かを見つけた母は、大声で「あそこでしちゃいなさい」と叫んだ。私の頭の中にはもう、明かりのついていない、人のいなさそうな浜辺しか浮かんでいない。

 

腹の痛み、吐いてしまった事実、そんなことがあわさりまともな思考能力を失っていた私は浜辺に走り、暗がりを見つけ、「もう大丈夫だ」とおもむろにズボンを下ろした。

 

そんな私をみて母が叫ぶ「そこじゃない!!」

だが、もう遅かった、少し出てた。

 

母は私の腕をつかみ、浜辺と反対側にあった「KFC」の看板を指す。満足げな顔だ。

私は「もう、終わった」となすが儘である。

 

それを見て父は大笑いしていた。

 

 

泣きながらKFCのトイレに

尻に異物感を感じながらも店員さんのご厚意で、KFCのトイレをお借りすることにした。

 

もう終わってしまった、吐いた上に「もらし」になってしまった。私はそんな事実に打ちひしがれ、半分べそをかきながら母の手を離れ、トイレに向かった。

 

実際にトイレに来てみると、あんなに腹が痛かったのがウソのように平穏だ。よくよくパンツを見てみると、ほとんど出ていない。男梅くらいである。こんなものに、あそこまで追い込まれていたのかと、情けない気持ちになった。

 

尻を自らの手でぬぐい、男梅が鎮座するパンツを処理し、横で笑う父をしり目にとぼとぼと私は宿泊先へと帰路の道を歩くことにした。

 

 

意外なことで人はびっくりするくらい追い込まれるし、吐く

嘔吐、もらすなどのワードもありお食事中の方は不快な思いをされたかもしれません。本当にごめんなさい。

 

ですが、私が伝えたかったのは人はひょんなことで自分でも制御がつかないほどに心理的に追い込まれてしまうということ。

 

この後も私は、音楽のテストで全く練習をしてこず授業をボイコットするかのようにリコーダーを全く吹かない男と一緒にリコーダーを合奏するはめになったり、大学で受講していたプレゼン形式の授業で、パワーポイントの担当がバックレ、なにもないままプレゼンをするような目にもあったりしましたが、一度たりとて吐きそうになったり、えずいたりしたことはありませんでした。

 

よくわからないものです。皆さんもどんなことで追い込まれるて吐いちゃいそうになるかはわからないので、何か精神的にきつそうな事案が差し迫っていたら、事前に不測の事態に備えるために準備ことをおすすめします。