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5歳の時、私はニューハーフに股間をもまれた

突然だが、私はニューハーフに股間をもまれたことがある。ガキの使いの罰ゲームのように、激しく情熱的にではない。優しく、ソフトに、だ。

 

こんな風に書くと、生えている人がお好みの通なやつなのか、と思われるかもしれないが、私はそこまで通ではない。普通のお店も未経験だ。

 

では、いつの頃の話なのかと言えば、それはちょうど5歳の頃。別の文章でも書いたが、私の両親は旅行が好きだ。様々な理由からまぁ多くは預ける場所がなかったからということだとは思うのだが、私はいろいろな場所に連れていかれた。

 

最初の旅行が5歳の時、場所はタイだった。つまり私は、最初の旅行でニューハーフに股間をもまれたわけである。まだ父親の下半身にも見慣れていなかったのにだ。

 

股間をもまれたのはタイの首都、バンコクにある歓楽街パッポン。日本でいえば歌舞伎町や新宿二丁目のような場所だ。

 

今はどうかは知らないが、その当時は夜の、それも男の娘がいるお店が多く軒を連ねていた。よくタイの旅行記で「自分よりでかくて萎えた」なんて通の体験談が乗っていたりするが、きっとその中の多くはこの辺りで”彼女たち”を引っ掛けた人たちだろう。

 

今思えばなぜ両親がそんな場所に5歳の子供の腕を引いて行ったのかはわからないが、5歳の私は、夜のパッポンを両親とともに闊歩していた。

 

初めての歓楽街がタイのパッポン、というとなかなかいい感じに青春をこじらせていて、一部の層から根強い人気を受けそうだが、この時私は5歳。青春はおろか、亀仙人がなぜ鼻血を出すのかわからないくらいうぶだった。

 

なんて、いろいろ書いているわけだがニューハーフに股間をもまれたのは、もう20年くらい前の話。だから、細かい部分は覚えていない。覚えているのは彼女たちに囲まれた時のことだ。

 

野太いのに男性的な低音のない独特の声が、四方八方から聞こえてきた。ふと見上げるときれいな恰好をした人たちに囲まれている。

きらびやかな服に入ったスリットからはスプリンターのような屈強な足がのぞいていて、もう少し上に目をやると、競泳選手のようなたくましい肩幅の髪の長い、おそらく女性と思しき人たちがにこやかな顔で私を見下ろしている。

 

彼女たちは私に微笑みかけ、「ハーイ」などと言いながら、目線を合わせてしゃがみこんでくる。最初は顔の横で、さながらいないないばぁのばぁのような状態で手をひらひらさせていたのだが、その手は次第に私の股間に伸びてきた。

 

ついには保母さんが子供に触れるようなやさしい手つきで私の股間を触ってくる。

 

私はもまれてしまった。

 

この時、私はなすがまま。さながら、蛇ににらまれたカエルのごとしである。

 

別に欲情はしなかった。ただいろいろな感情が幼い私の頭の中を駆け巡った。

なんでこの人たちは男の人なのか女の人なのかわからないような感じなのか。

なんで股間をもむのか。これがあいさつなら自分はどう反応するべきなのか。いろいろ考えた末、幼い私のはじき出した答えが恐怖である。今考えると別に恐ろしいことでもないのだが。

確かに、いきなり股間をもまれたら怖くないかと言われれば嘘になるけれど......。

 

とはいえ、タイは宗教上の理由から子供を非常に大切にする国と聞くし、今思えば、単純にめったに来ない小さな子供が来たから面白半分でさわりに来ただけなのかもしれないし彼女らなりのスキンシップだったのかもしれない。たぶん彼女らに悪気はなかったただろう。あったら怖い。

 

だが、当時の私にそんなことを考える余裕はない。あるのはただ恐怖だけだ。そのあとの2年くらいはカルーセル真紀やピーターをテレビで見るたびにホラー映画で恐ろしいシーンが来ると薄目になるような感じで、直視することができなかったぐらいである。

 

「もまれた」恐怖はそれほど大きな傷を、私の心に残した。

 

この当時はまだ、デコピンされただけでも悶絶する、椅子の座り方を間違えると激痛が走るという基礎的なことも知らなかったのにである。人間の本能とは恐るべきものだ。もちろん、恐怖の原因が股間が急所であるということに由来しているだけではないとは思うが。

 

ただ、3年4年と時間がたつとそれほど恐怖を感じなくなった。実はもまれて3年後にまた家族でパッポンに行くことがあったのだが、その際はさしもの私も、子供ながらに歓楽街での立ち回りを覚え、「もまれてしまう」ことはなかった。今ではこんな感じで文章にできるようにもなっている。

 

とはいえ、あれから一度も自分一人ではタイにいっていない。最近は一人でふさいで過ごすことも多い。またもまれにいってみるのもいいかもしれないなぁと思う、今日この頃だった。