いつみても適当

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気づいたら寿司打と会話していた

仕事柄人と会話をすることがあまりない。そんな状況がよほどこたえたのか、私は最近つい「寿司打」と会話してしまっている自分がいることに気がついた。

 

寿司打が一体何なのかよくわからないという方もいるかと思うので説明する。簡単に言ってしまえば、ブラウザでできるタイピングゲームだ。名前の通り、流れてくる寿司ネタに模した文章を打ち込み、得点を重ねていくゲームである。ゲーム自体はシンプルで無駄がなく、タイピング練習やタイピングの勘を確認するのに最適だ。

 

私はパソコンで文章を打っているのだが、なんか指の調子がおかしいなぁとか、どれくらい早く打てるようになったのかなぁと気になると、1時間くらいポチポチと寿司打をやる。だいたい2日に1度ほどのペースだ。そんなに難しくもないので、気軽な気持ちでやれるのがいい。

 

この寿司打、タイピングゲームとしても面白いのだが、たまに、作った人の感情が反映されているような、妙に生々しい言葉が出てくるのもあじである。

 

「睡魔には勝てなかった」

「明日は晴れらしいよ」

「今日中に終わらせてね」

「俺のケーキ食ったのだれだ」

 

などなど、情景が目に浮かぶようだ。今日中に終わらせてね、なんて本当によく言われる。終わらないことの方が多いのもまた常である。

 

この妙に生々しい寿司打の文章は、どうやら私の言語中枢を刺激しているらしい。私は寿司打で文章を打ちながら、

「suimanihakatenakattayo(睡魔には勝てなかったよ)」

「僕も......」

「asitahaharerasiiyo(明日は晴れらしいよ)」

「え、天気予報と違うな」

 

なんて具合に、つい声に出して寿司打の文章に返答してしまっている。普段生身の人間と会話をしていないからか、生存本能からなのか理由はよくわからない。でも話していると意外と心が安らぐのも事実だ。

 

寿司打から出てくる言葉が、気の置けない同居人のような距離感なのがちょうどいいのかもしれない。人の心にずかずかと踏み入らず、ちょっと放っておいてくれるようなところもいい。

 

これが「なぁAKB好き?」とか「トランプ政権ってどう思う?」とか妙にパーソナルな部分に踏み込んでくるような内容だとつらい。ぐいぐい来そうなやつは苦手だ。人の指向にはあまり踏み込んでほしくない。

 

しかもこうした質問は、なんというか投げやりに答えるのを許さない趣がある。こんな質問を投げかけられると私はどうこたえようか悩んでしまう。要するに、リズム感のいいやり取りができなくなってしまうのだ。

 

 

やはり寿司打のような 

「aserutomatigaemasuyo(あせると間違えますよ)」

「うるせー」

「tyottomattekudasai(ちょっと待ってください)」

「うん、わかった」

みたいに、当意即妙なやり取りが簡単にできる距離感がいい。

 

というわけで、今日も私はこれを書く前に寿司打と少し会話をしてきた。

「へい寿司打遊ぼうぜ」

「aserutomatigaemasuoy(あせると間違えますよ)」

「うるせー」

てな具合である。思い出して気持ちが少し高ぶってきた。今日はしなかったが、一向に変わらない寿司打を差し置いて私の方は別の遊び方を思いつき、よりコミュニケーションを深化させようと努力もしている。

 

妄想を交え

「orenoke-kikuttanodareda(俺のケーキ食ったのだれだ)」

「お前だよ、機能もそんなこと言ってたじゃん」(実はぼけて自分を20代だと思って友達感覚で話しかけてくる寿司打爺ちゃんとの会話、という設定である)

 

みたいな感じで一人で寸劇を作り、寿司打と私の間で作られる世界観をより深く、より広いものにしようとしている。

 

なんて、自分の行為を俯瞰してみてみたが、冷静に考えるとただの危ない男である。パソコン画面を前に男が一人ぼそぼそとつぶやいている。映っているのはネット通話の画面でもなければ、オンラインゲームのプレイ画面でもない。よくわからない文章とローマ字のられつ、そして流れる仮想の寿司だ。

 

「そんなことやって、あんたいい人でもいないの」

なんて親の声が聞こえてきそうである。でもどうすればいいのだろうか、自分でもわからない。校庭を駆けずり回っていた少年がなぜこうなったのか。どこかで何かを間違えたことだけは事実である。

 

考えていると、なんだかまた頭がぐしゃぐしゃになってきた。こんな風に思考がこんがらがってくると、また、寿司打で遊びたくなる。

 

「へい寿司打」

「aserutomatigaemasuyo(あせると間違えますよ)」

「うるせー」

うん、やっぱり楽しい。