いつみても適当

ブログです。

黙殺 報じられない”無頼系独立候補たちの戦い” レビュー 果たして誰が彼らを黙殺しているのか

黙殺を読んだ。主に選挙取材等を中心に精力的に活動を続けるフリーライター、畠山理仁(はたけやまみちよし)氏が足かけ20年に及ぶ選挙取材をもとにした作品だ。

 

ノンフィクションの登竜門”開高健賞”を受賞したことから目にしたことはある、なんて方も多いかもしれない。

 

黙殺と少々強めな題がついた本作は、その名の通り、選挙報道では報じられない”無頼系候補たち”の選挙活動、生き様を追ったものになっている。

 

無頼系候補、というとよくわからないかもしれない。それも無理はない。実際には多くの場合、畠山氏が無頼系と呼ぶ候補たちは”泡沫候補”等と呼ばれ、大手のマスコミでは報じられることはない。

 

時たま報じられたり、ネット社会であることからマック赤坂氏のようにカルト的な人気を集める候補もいるかもしれない。だが、実際のところ彼らの奇人変人のような面のみが独り歩きして扱われることが多い。そんな候補たちだ。

 

こうした泡沫候補たちの意見は奇異であったり常人の理解に及ぶものではないかもしれない。だが、本書が指摘するように彼らは選挙に全く興味がないような人たちよりも、よほど国のことを考え、憂いていることは確かだろうし、選挙に立候補するためにはそもそも数十万場合によっては東京都知事選の200万のように冗談では済まない額の供託金が必要になってくる。

 

もちろん、煩雑な手続きも必要なわけで、彼は国をあるいは自治体のことを考えこれらのハードルを越えて選挙に出馬を果たしている。立候補に値する資格は十分にあるはずだし、受かるかどうかに関わらず、本来であれば彼らについて、もっと詳細に報じられてしかるべきだろう。

 

だが彼らは報じられない。もちろん完全に報じられているわけではないが、その扱いには大きな違いがある。

 

97%対3%とは本書の冒頭に畠山氏が引用する数字だ。これが何かといえば、2016年に行われた東京都知事選にて、民放大手四局が立候補者を報じた時間の割合である。

 

この選挙では21人が立候補、そして小池百合子増田寛也鳥越俊太郎の3候補者が主要候補であり、それ以外の18候補が俗にいう泡沫候補である。

 

もちろん、97%対3%の3%は泡沫候補であるということは言うまでもない。確かに大手マスコミも営利目的で営業をしている。受かる候補者に絞ることの道理は通っている。併せて、本書でも指摘があるが、実際のところ候補者の扱いに差をつけることは違法ではない。

 

だが、明らかに不平等なことは事実だ。こうした明らかにおかしい事実があるからこそ畠山氏は一ライター、ジャーナリストとして選挙を追ってきたものとして、泡沫候補たちの選挙録や生き様を残すべき必要がある、として大手の記者たちが追わない、記者としてお金になるかもわからない彼らへの取材を長年続けてきたのだ。

 

畠山氏たちがおった泡沫候補たちは、文字通り人生をかけて、時には莫大な借金を抱え、時にはその命をなげうち選挙に臨む。

 

それはテレビや新聞など大手マスメディアが報じる彼らの一面的な俗にキワモノと呼ばれるような姿とは大きくことなる。キワモノであることすら彼らが圧倒的不利な状況で少しでも有権者に触れようとする作戦である場合も少なくないのだ。

 

そんな孤軍奮闘する姿があるからこそ、畠山氏は彼らを泡沫候補などとは呼ばず彼らの命がけの必死に社会を国を考え、戦う姿に敬意を表し”無頼系独立候補”と呼ぶのである。

 

もちろん本書が読者に提示するのは単なる、孤軍奮闘して戦ってきた、無頼系独立候補たちの生きざまだけではない。政治の新たな見方も提示する。

 

本書を見ていると感じるのは誰でも選挙に限らず、気軽に、そして深く政治に参加することはできるということである。小池百合子鳥越俊太郎のように、華麗な経歴や潤沢な資金がなくてもだ。

 

誰だって何か思いがあれば立候補したって参加したっていいのである。別に参加する理由だってなんでもいいのかもしれない。本書で登場する無頼系候補の一人、後藤輝樹も立候補することが目的で選挙に出ているわけではない。

 

本書に書かれた彼の弁をそのまま書くなら「ろくでもない政策を持っている候補、何も考えていないような候補が受かることが許せない。自分が選挙に出て、選挙に注目を集めることでろくでもない候補者を減らしたい」

 

そんなことだっていい。中には日雇いのアルバイトをしながら2016年の都知事選に立候補した佐藤正吾のように実際それほど立候補する理由がなかったような候補もいる。だが、彼も選挙活動を通し、自分の立場意見を先鋭化させ、他の立候補者たちと協力関係を結ぶなどこれまでにない選挙活動を展開したりもした。

 

本書を読むと、実際には報じられていないだけで、実に多様な選挙とのかかわり方をしている候補たちがいることがわかる。それも場合よっては自分の当選すらなげうつほどの覚悟で、主要候補たちよりもはるかに誠実ですらある。

 

彼らと同じように我々だってもっと気軽に意見を表明し、場合によっては立候補し、自分の意見を政策を述べてもいいのかもしれない。いや、そうすべきだ、という気持ちにさせられるのだ。

 

また、本書はもう一つ選挙、政治に関しての問題提起を読者に投げかけている。それは誰がこうした黙殺候補たちの奮闘を彼らの人生を黙殺しているのか、ということだ。

 

もちろん畠山氏が本書の中で触れているように日本の大手マスコミの構造にも問題はあるのだろう。正直彼らのことが知りたいが、そんなことは普通にマスコミに接しているだけでは深くはわからないだろう。

 

選挙というものをより豊かにするのであれば、マスコミは平等に報道すべきだとも思う。

 

その一方で本書を見ていると、やはり感じるのだ、彼ら黙殺しているのは選挙に興味を抱かない我々の方なのではないかと。

 

もちろん、マスコミの怠慢から無頼派候補が報じられないという多きな問題はある。だが、今は立候補者もネット上で気軽に広報活動をできるようになったし、場合によってはネット上であれば、主要候補に迫る影響力を無頼系候補たちが影響力を持っているかもしれない。

 

だが、そんな環境があるにも関わらず、やはり多くの人間にとって無頼派候補たちは泡沫候補でしかないことが多い。

 

本書を読んでいると、こうした選挙に突っ込んで言えば自分たちの生活にあまりにも無頓着な我々の現状をこそ替えるべきではないだろうかという気にさせられる。

 

数字やよくわからない知名度に左右されることなく我々が自分の言葉で、選挙に立候補する候補者たちの政策の内容や人となりを判断できるようになれればと思う。難しいのかもしれないが。