いつみても適当

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もっと思いつきで生きていきたい

 どうせそのうち死ぬのだから、もっと思いつきのままにいきてみたいなあと思うことが多い。とはいえ、そんな生き方をしている人間の多くは、思い付きで子供を作っていそうな某子宝氏だったり、連続で起業して倒産させてしまったり、たりたり、とにかくろくでもない人が多い印象もある。

 

 そしてうまくいっている場合はとてつもない才覚の塊のような人が多いように思う。他動力なんていう話もあるけれど、動いて完結させて、しかもそれで生活を成り立たせるなんてかなり恐ろしいことだ。

 

 時には安定も必要だろう。そんな危ない、綱渡りをしながら生きていくような生活に耐えられる胆力も必要だろう。中にはそもそも人間としての機能がぶっ壊れているとしか言いようのない人がいて、才能があるから生きているというよりは、そういった生き方をしなければとてもではないが生存できないような人間もいるだろう。

 

 もちろん自分にはそんな生活は無理だと思うのだが、あこがれているのも事実だ。もっとわちゃわちゃ生きたい。川があったら飛び込んでみたいし、興味があったら突然旅に出てみたい。盗んだバイクで走りだすのはちょっと怖い。

 

 こんな感じでとっても思い付きで生きる生き方にはあこがれがある。理由は単に自分が刹那的な享楽に身をゆだねたいからだけではない。もう少し思想的な部分でも思うところがある。

 

 正直私はライフスパン、人生設計なんて言葉がとても苦手である。嫌悪すらしている。社会から生き方を既定されるようでとても嫌なのだ。またこうしたこぎれいな横文字が並ぶとき、家を買え、子供を塾に入れろ、婚活パーティーだ、なんて金のにおいがするのも嫌なのだが。

 

 もちろん生きていくうえではなんらかの形で社会の一員になる必要があると思うし、そこに異論はない。でもやはり敷くレールくらいは自分で選びたい。そのうえで納得してやりたいのだ。刹那的に思い付きで生きるというのはこうした自己選択を究極的に突き詰めた際にあるのではないかと私は思っている。だからとてもあこがれているのだ。

 

 とはいえ、私にはそんな生活に耐えられるだけの才能も胆力もなさそうだ。自分の中でどう折り合いをつければいいのか、もう少し考えてみる必要があるのかもしれない。